【母のこと~ご報告】
【母のこと~ご報告】
【母のこと~ご報告】
同居していた、わたしの母のことです。

先月半ばから入院していたのですが、
10月9日、日付がかわってすぐの0時22分に亡くなりました。
享年91才の大往生でした。

9日にお通夜・10日に葬儀も無事終わりました。
家族と近い親戚だけでひっそりと、ゆっくりと、
心置きなくたっぷりと、送ることができました。

以下、長くなるけど、母の最期の時間の忘備録として
記録しておきます、この場をかりちゃってすみません。

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昨年末まですこぶる元気だったのに、
今年に入ってから、上半身のあちこちが痛みだした母。
その辛さに加えてインフルエンザにかかり、
それが長引いてすっかり弱ってしまいました。

やがて少しずつ入浴や食事の介護が必要となり
タクシーでの通院も大変になったので、
9月14日、在宅介護支援で手配していただいた往診の先生に
はじめてきていただきました。

その先生が母の息遣いが苦しそうとおっしゃり
酸素濃度?をはかったところ、これは苦しいでしょう、と。
本人もわたしも毎日すこしずつそうなっていたので
それほど重大なこととは思っていなかったのですが、
「今日より明日、明日よりあさってと、
 どんどん辛くなるから今日のうちに救急車呼びましょう」と
おっしゃっていただき、搬送先も手配してくださいました。

結局、診察はしなかったとのことで代金の請求もなし。
ほんとうに親身になってくださいました。
こういう先生がついておられたら
大変な在宅介護のなかでも身体面では安心だろうな、と
つくづく思いました。

そうして生まれてはじめての「救急車搬送」体験w
最初すぐ入院とはならず、何なら家に帰されてしまうかも?と
不安になったなか、、、
肺のレントゲンを見た先生が「肺炎かもしれないので
入院して肺炎治療をしましょう」とおっしゃり
ひとまず入院できる、ということにホッとしました。

それが夕方5時ころのこと。
検査がつづき病室(個室)に入れたのが9時ころだったかな?
とうぜん母もわたしもお腹すいててww
「お腹すくんだからまだまだ大丈夫だよねー」なんていいつつ
まだ空いていた病院の売店でおにぎりとサンドイッチの夕食。
わたしだけ帰宅。

なんだか、母には悪いけど、
気持ちが楽ーーーになりました。

それまでは、例えば朝起きて
母の部屋に灯りがついてないと
「なにかあった?夜中に倒れた??
 まさか死んでないよね???」なんて思って怖くて
扉あけて声かけるのをいったん躊躇してしまったり。

会社から帰ったら帰ったで、
「ただいまー」の声に「おかえりー」と返ってくれば安心。
それが、声がしないと「わたしの居ないうちに倒れた?
まさか死んでる???」なんて、
朝と同じく、怖くて様子みるのにまた躊躇。
(きほん、ヘタレのビビリ凹)

だからとにかく、病院に居てくれれば安心、というか
正直、何かあってもわたしの責任じゃないもんね、という
申し訳ないホンネの安心感で、
なんか変な感じでした(^^ゞ

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で…翌日は土曜日だったので、昼前に病院にいったら
主治医になってくださった先生(風格ある部長先生)がおられ、
別室にまずわたしだけ呼ばれました。

いろんな画像をみせられ、説明。
そうしたらなんと、末期の肺がん、骨にまで転移しててステージ4、
血液検査の腫瘍マーカーの値も高いので間違いないと言われ、
とにかくびっくり!

今年に入ってすぐから、最初は肩・それが上半身全体が痛んで
とにかくいろんな病院のいろんな科に行って検査しても
原因不明と言われてたから。
特に「肺に水がたまってるせいかも」ということで肺の検査もして、
そのときも「肺もなんともありません」って言われたから。

医療過誤?見落とし??
いろんな言葉が浮かんだけど、
もしそこで見つかって手術とかになってたら
それはそれでもっと苦しい思いさせたかも、って
自分も当人もあきらめ。
痛みが続いたのはかわいそうだったけど
なんとか折り合いつけて、静かに過ごせば大丈夫になってたから。

痛みに慣れちゃったのかな?
原因がわからなければとにかく痛いのだけ取り除こう、と
ペインクリニックで注射も受けたけど
結局短時間しか効かなくてやめちゃったり。

で、先生が「ご本人にも告知なさいますか?
いまはよっぽどのことがない限り、ご本人にもお伝えし、
方針など了解していただきます。」とのこと。

母自身、痛みの理由を知りたいだろうし、
いろんなこころの準備もあるだろうから、と思い、
伝えることにして、再度母も加わっての告知となりました。

(ここで思い出したのが、直江先生の石倉さん。
 あのころは、本人はもちろん家族にも伝えずにおくことが
 あったくらいだったんだなぁ、と隔世の感。
 だけど、伝えずにすべてを自分の責任で背負った
 直江先生の気持ちの重さを、はじめて、ほんの少し
 感じることができたかも、です。)

で…母はショックというよりとにかく驚き。
親族にもガンのひとは思い当たらないので、
まさか自分が?って。

だけど思いのほか冷静に受け止めて(それしかないよね…)
延命治療は一切せず、
痛みをなくすことだけに注力していただく、などの
お話をしました。

(それからは、ことあるごとに何度も
 「延命処置は必要ないですね?」との確認アリ。
 いざとなると家族の想いも変わってしまうから、なのでしょうね。)

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そんなこんなで入院した母、
常に酸素をもらってる?からか、最初は家に居る時より元気で
ちゃんとご飯も(持って行ったおやつまで)食べてて。

こりゃ、年取ってるから進行も遅いのかもね~
半年や1年2年、まだまだこんな感じで居てくれるかもね~なんて思って。

転院先も緩和ケア病棟とホスピス、2か所が候補になって
第一希望のホスピスのほうは、今週木曜日に家族面接を受ける予定で
今の病院から資料(CD-Rの画像ディスクなのね)ももらっていました。

実は最初は、主治医の先生から
「積極的治療はしないけど、脊髄が侵されるとまったく身体が動かなくなるから
 それを緩和するための放射線治療だけしましょう」と言われてました。

ほんとうはそれもやめてほしかった。
だって一回ずつは15分程度かもしれないけど
それを3週間毎日じっと受けないといけないのは、苦しいかもしれないって。
放射線自体は苦痛はないとしても。

でもね、それを断る勇気がなかったなぁ。
母にはずっと「もう十分年取るまで生きたんだから
とにかく静かに逝かせてほしい。
ただ痛みはないようにお願い」と言われてたから、
たとえ脊髄が侵されてまったく動けなくなっても
痛み止めだけふんだんに(?)使ってもらって
あとは静かに寝かせておいてあげたかった。

だけど、いざとなるとそこまで言えないね。
先生に「治療ではなく苦痛を緩和するための放射線」と言われてしまうと
それを断ったら、なんか、「見捨てる」みたいで言えなかった。
だからその方針を本人に伝えたとき、
本人も「いやだけど、そんなの受けたくないけど、仕方ないね」って
いったんは承諾してサインもした。

やっぱりわたしたちの世代って「お医者さんにたてつくと(←語弊あり)
病院を追い出されちゃう」っていう強迫観念があるのね。
救急搬送だと意に反した病院(遠すぎるとか環境がわるいとか)に
運ばれてしまっても仕方ないなか、
本当に、近くて新しくて環境がよい市立病院に入ることができたんだから
このまま少しでも長くココにおいてほしい、っていう気持ちがあったから。

結局、敬老の日の3連休明けから治療を開始することになって
その火曜日、仕事終わりの4時半ころ急いで病院行ってみたら、
なんと首に首輪のデカいやつみたいなギブス(3万円+消費税)つけてて、
まるでワンちゃんが噛まないようにつけてるカラーのゴツいやつみたの。

「どしたっ??」って聞いたら、
なんだか知らない間に整形外科に車いすで連れていかれて、
首に合わせてギブスつくってつけられた、と。
なんでも、首の骨がもろくなってるから
骨折防止に常に装着することになったそうで……
そりゃーもともとやせ細ってる首にそんな、、、痛々しすぎる(^^ゞ

「はっ、放射線はどうだった?」って聞いたら
「もう放射線はやめたい。こんなギブスつけたうえに
 じっとしてそんなの受けるなんて嫌だ」って言ったんだって(驚)
そしたらお医者さんと検査技師さんと看護師さんやらが集まってきて
口口に説得?されて、
「だったら今日だけやめてくれ。明日からにしてくれ。」って
頼んだんだって。。。
あのおとなしい母がそんな「自己主張」するなんて驚いたし、
それくらい、ギブスも放射線もイヤだったんだな、って思いました。

そんでまた翌日ですよっ。
同じく夕方病院行って「放射線どうだった?」って聞いたら
「結局やらなくてよくなった」と(’_’)
「やっぱりやりたくない。まだまだギブスにも慣れないし
 これ以上しんどい思いはしたくない」って
またまた断固言ったんだって。
そしたらもう、今日は説得もされずに
「わかりました。」って引き下がって??くれたって。
おそるべし母よあなたは強かった!!

ほんとーーーに、きっと「なすがまま」になると思った母の
思いもしなかった主張に、学ばされました。
結局は自分の身体だものね。
直観みたいなのもあったと思う。
「すごいねーやったねーーすごいねーーー」って感動してました。

だけどね、それをやめたとなると、
あとは痛み止めの処置しかなくなるわけで
当然「転院」の話が出てきます。
だけど、うわさに聞いてたように「自分で行き先さがしてください」
なんて鬼畜なことはなくて(ほっ)
そこで、ケースワーカーさんと相談して、
緩和ケア病棟かホスピスのある病院をあたることになったのでした。

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それからは毎日、平日は仕事終わり・
休日は午後2-3時ころ病院に行って、
顔見て、なんとなく喋って、売店のアイス(ピノ)を半分づつ食べて、
あとルーティンは新聞小説。
若いころから本が好きで、
わたしが部屋に置いてある本をすこしずつ片っ端から読んでました。

特に鬼平犯科帳なんて、むかしの文庫本だから
字がすっごく小さくてギッシリ詰まってるのに、
全24巻だったかを全部読んでました。
もしかしたら2巡目に入ってたかもしれません。

だけど目が疲れたり痛むようになってからは
新聞小説だけにしていました。
中日新聞の、桐野夏生さんのやつ。
毎朝そこだけ切り取って、
でもだんだん持ちにくくなってからは1ページまるごと、
持って行ってました。
で、眼鏡かけさせて、それを時間かけて読んでました。
そのあいだわたしは洗濯もの入れ替えたりして。

結局、結末が近かったその小説を
最終回まで読むことができました。
その次の中村文則さんのは、、、
ちょっと合わなかったみたい(^^ゞ
弱ってしまってもう新しい「連続小説」を読む気力もなかったかもね。

そうそう、あと、ちょうど大相撲の場所中だったから
久しぶりに出場できた稀勢の里を心配してたなぁ。
テレビカードあったから見ればいいんだけどそれは疲れるみたいで。

で、一週間くらいすると、
食事が自分では、スプーンでもぼろぼろこぼれるようになってしまい
看護師さんに食べさせてもらうようになりました。
売店でナイロンの洗えるエプロン買ってきて…(けっこうお高かった(^^ゞ)

でも看護師さんによっては、早く終わらせたくてせかされることもあるようで、
本人いわく(盛ってるかもしれないけど)
ゆっくり噛まないと喉とおらないのに
「もういいですか?もういいですか?」って連呼するひとが居るらしくて。
(それは盛りすぎやろ?って笑)

だから夜だけ食べさせようと、
会社おわっていったん家で洗濯物いれたり風呂いれたりして、
それから食事の6時ころ行って、食べさせて薬のませてから
帰るようになりました。
家族のごはんが、ただでさえそもそも手抜きなのに
ますますお惣菜とかが増えていったのはうしろめたかったなぁ。
でも夫も息子もそこは文句言わないし、
息子もいるときは風呂いれて洗濯物もいれててくれて
助かったなぁ。

***********************

そんな感じで10月になりました。
転院のための面接が11日の木曜日に決まり、
今後のことを考えるようになったころ、
わたしが痛恨のミス(?)を・・・凹

毎日同じ感じのルーティンだったので、
入院以来ずっと個室だったのを、大部屋に移してもらったのです。
けっこうな額が心配だったし、
転院してからもどのくらいお金が必要か予想もつかなかったので、
この状態なら大部屋にうつって転院を待ってもいいんじゃないかな?って。

幸い、あたらしい病院なので大部屋といっても4人部屋で快適、
それぞれがカーテンで完全にしきられてるし、
「この状態なら個室じゃなくてもぜんぜん大丈夫ですよ」って言われたので。

今までいた個室のフロアの片側が大部屋だったのね。
でもぜーーんぜんしずかで、てっきりフロア中が個室だと思ってたくらい。
おそらくがん患者さん専用のフロアなんだと思います。

で……大部屋に移っても個室と変わらないくらい快適…なのはよかったんだけど。
とにかく、部屋がシーーーーンとしてるの。

むかしの大部屋の雰囲気を想像して
同室の方のあいさつがわりにゼリーとか買っていったんだけど
とにかくシーーーーーンとしてて
みんながカーテン閉め切ってて
とても「ごあいさつ」なんて感じじゃなくてね。

で、うちの母はすでに耳が遠くて
喋るのもお互い大声出してたのですよ。
それがまったくできなくなってしまって。。。
車椅子が使えれば談話室とかいっぱいあるから
そこで喋れたんだけど、
入院したその日から、酸素の管と点滴の管がつながってるから
個室にトイレもシャワーもあったのに
すぐさまおむつにされて使わないまま。

おむつといえば、ものすごい勢いで
おむつとパットがなくなったなぁ(笑)
おむつの方はそれほどでもないけど
パットの方はいっぺんに2枚くらい使うらしく、
それもありがたいことに頻繁に替えてくれるのね。

だから「こないだ持ってきたところなのにー??」っていうくらい
しょっちゅう買って持っていきました。
ネットでなるべく安いのを探して。
(いまも買いだめしたのが残ってるー”(-””-)”)

だけど病院指定のじゃなくてネットで安いの買えたから
助かったかな。

話をもどすと……そんなわけで、
車いすに乗せようと思うと、点滴なども持ち運び用?に
替えなきゃいけないからね、それも言い出せずに。

だからひそひそ声でなんとなく喋るけど
母は聞こえてるんだか、わかってるんだか??の状態。
そんなんだから長居もせずに、
ごはんだけ食べさせたらそそくさと帰るしかなくて。。。

今思うと、それが本当にかわいそうだったなーーーって。

まだまだ母の蓄えもあったのに、
そのときにそうやってケチってしまったばっかりに
わたしと喋るのだけが楽しみだったのに
それもできなくなってしまったのと、
いきなり病状が悪化するのが同時だったので
それだけは悔いています。

言い訳すると(この期に及んで・笑)
個室でずーっとひとりで寝てて看護師さんとしか接することないから
まわりの様子がまったくわからず、
大部屋になれば、おしゃべりしなくてもまわりの様子をみてたり、
病院の様子がわかることで、気がまぎれるんじゃないか?っていう
思いもあって、お互い決めたんですよね。

ところがね、カーテンが閉めっきりだから
変に音や声でうるさくなって、
自分の方が気を遣うだけになってしまって、
ホントにそれだけは後悔してます。

「やっぱり個室にもどしてもらおうか」と思い始めた
大部屋に移って3-4日目かな?
とつぜん午前中病院から電話があってびっくり!!
しかも入院してすぐの1度しか会ってない(汗)主治医の先生からで。

「朝ごはんを食べたらむせてしまって熱がたかくなったので
 解熱剤などで対応しています。
 今後は誤嚥性肺炎の心配のため、栄養は点滴でとる必要があるので
 ‘中心静脈栄養’(かな?)の処置をしたいのですが、
 同意していただけますか?」という確認の電話でした。

わたしとしては、亡くなった夫の父を見ていても
固形物が食べられなくなったあとは、
スムージー状にした流動食になる、という段階があると思っていたのだけど
いきなり電話でそういわれたので、他の方法を確認することもなく
「そのようにお願いします」と言ってしまいました。

そしてその日の帰りに急いで病院へ行くと
もう太い点滴の処置がされていました。
辛かったのは、夕方だったから「ごはんは?」と何度も聞かれて
そのたびにひそひそ声で「ごはんはないから」と言うしかなかったこと。

少しの「おたのしみ」ならいいですよ、と言われて
いつものアイスのピノを買ってきて、
いつも半分の3つのところ5つも食べて、
「ごはんのかわりね」って言っても、すぐに「ごはんは?」って
聞かれるので、、、
居たたまれずにすぐさま帰ってきてしまいました。

そうだよね、たとえ少ししか食べられなくても
やっぱりごはんの時間は楽しみ、つーか
それしか楽しみはないよね。

おやつを置いておいてじぶんで食べられればいいけど
もちろんそれもできないわけで…辛いよね、ごめんね。

**********************

そして翌日から、体育の日の3連休。
その初日の土曜日は台風の影響で風のすごい日で、
一度昼過ぎに行ったら、熱が出ていてぼーっとしていて
ぜんぜん目を合わせることできず喋ることもできなかったのです。

でも実は前にもこんなことがあって、
そのときは、酸素濃度が高すぎてぼーっとして発熱し、
濃度を下げたり解熱剤とか冷やすとかして
翌日にはもとにもどってたのね。

そんなアタマがあったし、看護師さんも特に心配ないというので
いったん帰ってきて、
夕方また行くつもりがあまりの風のつよさにひるんでしまい、
「明日の朝イチでいいや」と思ってしまったの。

そしたら、7日日曜日の朝、そろそろ行こうかな~って思ってたら
病院から電話で「呼吸が浅くなり意識のない状態になってしまった」とのこと。

動転して「今から行きまーす、間に合いますか?」って聞いたら
まだ危篤とかではないと……ほっ。
で、電話口で、すぐ個室にもどしてもらうようお願いして
チャリ激走で行きました。
ちなみに激早起きの夫はすでに洗車に出かけてて車はなく…
風がおさまっててよかったーーー

病院についたら、個室に移してくれてて、
母は目が半開きで呼吸が辛いようで、
いままでのと違う、本格的な酸素マスク??つけてました。

目は開いてるけど見えてないみたいで反応なし。
息は常にハッハッと浅くて。。。
この時点ではじめて、田舎の弟に「すぐ来た方がいい」と連絡。

もちろん入院したことは言ってあったけど
このあとホスピスなどの転院が決まってからくればいいんじゃない?って
言ってあったので、
これもなぁぁぁ意識のあるうちに弟呼んで
顔見て話させてあげられればよかったなぁーーー
これも後悔。

だけど去年まではすっごく元気だった母は
あんなに高齢なのに、ひとりでJRで父の墓参りかねて
弟に会いに行って、ひとりでビジネスホテルに泊まって、
(しっかりホテルのカードもつくってあった)
年に何度かは会えてたから、せめてよかったんだけど。

今年にはいり、母があちこち痛んで弱ってしまい、
辛くなってからはさすがに行けずに、
でも電話では何度か話してもいたようで、
それもせめてよかったけど。

でもやっぱり、がんとわかってから、
合わせて話させてあげればよかったなーーー後悔ばかりだね。

***********************

結局弟は、翌日の月曜の朝イチで出てくることになり、
日曜はわたし一人で病室に泊まりました。
付き添いベッドを貸し出してくれるの、助かりました。

最初は起きてたんだけど…日が変わるころ寝落ちしちゃって
看護師さんが1.5時間ごとに巡回に来てたのも気づかなくて。

でも夜中にね、なんかパコンパコンって音がして起きたら
母の息が、それまではハッハッと浅いなりに規則正しかったのが
しばらーーーく息止まってから「ハァッ」って大きく吸うのの繰り返しになってて、
その、大きく吸ったとき酸素マスクがパコンって音をたててたのね。

迷ったけど夜中にナースコールをしてしまった。
だってさ、これで息が止まりでもしたら
なんのための付き添い寝だっ??ってことになっちゃうからね。
、、、なんてこの期に及んで保身?が頭をよぎったわけですが。

すぐに看護師さんが来てくれて、
これは呼吸の状態が変わったんです、と。
これからも変わっていきます、とも。

つまり、臨終までの変遷というか??、、、そうなのか、
やっぱりこれは臨終に向かってるのか、、、って、
それまでは、万万が一、またもとにもどったりして~~なんて思いもあったから。
まだ「危篤」って言われたわけじゃなかったから、

でも、それをきいたとき、
そっか…ここからは臨終への一方通行なんだなぁ、、、って
はじめて直面した気がしました。

結局、そんな状態のままむかえた日曜日。
昼前に、故郷から弟と、母の末の妹が到着しました。
末のおばさんは年がはなれててまだ70才そこそこ。
元気いっぱいで車を出してくれたそうです。

実は母は5人兄弟のいちばん上で、ほかの4人は全員元気なのね。
そのまた母(わたしのひいばあちゃん)も100歳まであと何日という
99才で亡くなった、という長寿の家系なんだけど。

その兄弟たちにも、ちゃんと連絡して
意識のあるうちに逢わせてあげたかったなぁ…ってね、
またまた後悔ね。
ちゃんとしてたときには、遠いところ悪いから呼ばなくていい、って
言ってたんだけど、
鵜呑みにせずに、逢いに来るかどうかは先方にまかせて
とにかく連絡だけしとけばよかったなぁ。

で、到着した弟とおばさんが母にいろいろ耳元ではなしかけて、
そしたら「あっ手を握り返した!」って喜んだのね。
「わかってるよー逢いに来たのがわかってるんだね!」って喜んで。

実のところ、その反応はゆうべからもあったので
「んーーーどうでしょう?」って長嶋さんな感じだったんだけど
(冷血です(^^ゞ)
でもその場はいっしょに喜びました。
手を握り返したのはともかく、
耳は最期まで聞こえるっていうから、
それを信じて、間に合ったーよかったよかった!って。

おばさんは、まだまだ母が頑張れることを信じて
いったん帰って、弟とわたしとで泊まることになりました。

**************************

そんなこんなの夕方のこと、、、
ずっと息は、止まったかと思うと「ハアッ」って吸うのの繰り返しだったんだけど
(あんなに止まってる時間長いのに生きてられるんだ…って直に驚き)
呼吸ばっかり気にしてて、心拍数とか脈拍は気にしてなかったのね。

そしたらいきなり看護師さんたちが3人ほど病室にきて
「脈拍が弱ってきました」と。
セントラルモニターでずっと視てくれてたようで。

わたしたちは「えっ???ホントの危篤???」って焦ってしまって、
そこからはふたりで手を握って、
ちーーーっとも親孝行でもなければ優しくもない姉弟だったのに
このときばかりはドラマのように、両側から手を握って
耳元で「おばあちゃん!ありがとう!!いままでありがとーね!!」って
そんな言葉かけてたら泣けてきて、
ほんっと小さいころからのこと、
不本意にも故郷を離れて名古屋で肩身の狭い思いをさせたこと、
いろいろ思い出して、
親不孝もいーーーろいろいろいろ(エンドレスで、いろいろ)したこととか思い出して
あーーードラ吉が間に合わなくてごめんねーー!!とか、
とにかく泣けて手を握ってたら
枕元のモニターがピーーーって音に代わって
「あぁぁぁ心臓が止まっちゃった」ってまた泣けて。。。

そこからね、しばらく確認のために
看護師さんたちがじーーっとモニターを注視するわけですよ。
わたしと弟は、てっきり(てっきり?笑)逝ってしまったと思って
いろんな想いで泣いてるわけですよ。

そ・し・た・ら・・・
ピーーーってなってたモニターが、ふたたびピッピッって動き出して、、、
なんと蘇生したというか、
まぁまだお亡くなりになってなかったのね。

もちろん嬉しいことですよ!!
でもまぁ、いまくりひろげた愁嘆場かえせーーー
恥ずかしいじゃないかっ??、、って感じで、
喜ぶところなのに、居たたまれない??(笑)

看護師さんたちも「生きる力がすごいですねー」はまだしも
「心臓が強いですねーー」とか
「生きる執念がすごいですねーー」とか、
挙句の果てに「思い残したことでもあるんですかねーー」なんて
「おいおい、そんなこと思ってても言うな!」みたいなことまで口走り・・・

ともかく、ちょっと、不謹慎ですが「ドリフのコント??」って感じで
気まずい時間があったあと、
「また来ますね」って言って看護師さんたちがまた
ぞろぞろ出て行きました。

さあて……ココからが、不謹慎の連続となります。
そんな感じで夜、交代で寝ることにして、
そこからは、呼吸が止まってるあいだは
モニターがピーーーー、
そのあと母が大きな呼吸をするとピコンピコンって音になり…の繰り返し。

目をつぶって寝てても、耳にピーーーって聞こえてて
「ああこのまま止まるか??」って思ってると
ピコンピコンって聞こえてくるの連続で、
またまた「母よあなたは強かった」

こんなに心臓が強い母だとは思わなかったーーー
だって本人いわく、「若いころ心筋梗塞やって、
あたしゃ心臓が弱いんだよ」って(←言い方はちょっと脚色)
少なくとも本人は、心臓が弱いからポックリ逝けると
信じてたのね。

看護師さんもびっくりの心臓の強さで、
そんな時間が過ぎていき・・・

夜の10時ころだったかな?
母がいきなりひきつけを起こしたかのように、
痙攣というか、断末魔なの?って感じで顔を4-5回歪めたの。

それでびっくりして駆け寄ってナースコールして。
そっか、これが本当のご臨終なんだ…って覚悟して。。。

痙攣が終わって息が止まったままで、
看護師さんたちもまたぞろぞろと入ってきて
モニターはピーーーという音になり。。。

もうね、哀しいというより、解放されたね楽になれたねって気持ちで
ホッとする気持ちのほうが強かったかな??

そしたら、、、またまたモニターがピコンピコンと動き出し。。。

もはやね、完全に気まずいですよ看護師さんたちに。
そんな気を遣う必要ないんだけど、なんか「すみませんねー」って感じ。

これがホントの「往生際が悪い」って言葉までアタマをよぎったけど、、、
さすがに口にはしなかったよ、褒めて褒めて(褒めるかーいっ???)

そんな繰り返しが2-3度あって、
もうこのまま永遠にこれが繰り返されるんじゃないか?って
痙攣おこしても、びっくりしなくなったころ。。。

8日から日をまたいで、9日になったころ、
同じようになり、看護師さんたちが来てくれて。

今度こそ、モニターがふたたび動くことはありませんでした。

**************************

(笑い話でほんっと不謹慎だけど・・・)
それこそ全員で、じーーーーっと、モニター見つめ続けましたよ。
頭のなかでは「もういいからね、おばあちゃん。
頑張らなくていいからね。このまま楽になってね。」って
逆の、祈りの気持ちです。(怒らないでねおばあちゃん)

きっと誰も言わないけど、
あそこにいた誰もがそう思ってたに違いない。。(怒らないでねおばあちゃん)

15分くらいたったかな?
やっと(やっと??)「先生呼んできます」と看護師さんが出て行って、
宿直の先生がやってきて、
(主治医の先生も、休みなのにいらしてたけど
  夕方頃見えて脈などとって、もう手を尽くしました、という
  感じで目礼していかれました。)
その宿直の先生がいろいろ確認して、
なんとおっしゃったかな?
「死亡されました」だったかな?
とにかく「ご臨終です」とは言わないのね。

それが、10月9日0時22分でした。

そこからは、正直、哀しいというより慌ただしい。

看護師さんたちが身を綺麗にしてくださるあいだ、
一応決まってた、生協関係の葬儀社に電話して、
引き取りにきていただき、
集合住宅なので直接斎場に安置してもらうことになり、
わたしと弟もその車に同乗して、
場が斎場に変わりました。

真夜中なので、とにかくひっそりと、
1か月弱、長いような短いような…だったけど、
やっぱりこれは、短いんだろうな。
おばあちゃん、娘孝行してくれたんだろうな。。。

そのあいだ、よくしてくださった看護師さんたちに
ひっそりとお礼を言って、
葬儀社の車に移して出発するまで見送っていただいて。

ちょっと、放心状態になるよね。
弟と、口も聞けずに、ぼーーーっと、虚脱状態。

だけど近くだからすぐ斎場についちゃって、
そこからまた慌ただしく、真夜中の「打ち合わせ」がはじまりました。

*********************
*********************
*********************

以上が、亡くなるまでの私的記録です。。。

ほんっと、申し訳ない!長すぎて…いくら忘備録とはいえ、
いろんなこと思い出して、とりとめもなく。

通夜も葬儀も、人数はごく少ないもののドタバタで(^^ゞ
また忘れないうちに書き留めておきたいと思います。

前にヒミツで母のこと書いたときから
いろいろとご心配くださりありがとうございました!
そんなわけで、最期はくすっと笑える大往生でした。

長々とだらだらと、お付き合いさせてしまって
申し訳ありません!!
今はリビングに仮祭壇をしつらえてもらって、
みんながいる中で、遺影で笑ってます。

にぎやかでいいよね。

そこから、相変わらず雑でどたばたしてる娘と、
キホンおまぬけなドラ吉を
見守っててくださいね。


【追記】

画像は、お葬式の枕花のユリのうち
まだつぼみだったので残した分を
葬儀社で担当してくださった新卒のおねえさんが
花束にして届けてくださったもの。

あっというまにつぎつぎと開いて、
白とピンクがキレイで華やか!

ただ、、、陣ちゃんじゃないけど、
花瓶がなくてねーーー
麦茶ポットを総動員(←だから雑!!)

美の王子様・ごろーさん、
ゆるしてください(^^ゞ

コメント

マダムM
2018年10月14日10:25

お母様のご冥福を心よりお祈りいたします。

私の母は現在施設に入所しており、昨年の夏に「好きな物を食べさせて」「葬儀社は・・・」、あの話は何処へ行ったのかしら?痴呆症は進んでますが、私の事はちゃんと分かってくれ、耳と目はいいので話はします。会話が成り立たないだけで。今年95歳、いささか私の方が疲れて来ています・・・

nophoto
ako
2018年10月14日17:39

くるみさん、お久しぶりです。
お久しぶりのご挨拶がこんな時で申し訳ないのですが‥
お母様、頑張られましたね~。
ウチの父もそうだったんですよ、その度に姉たちと、
「お母ちゃんが追い返してるのかねぇ」
なぞと話しておりました。
ずっと家に帰りたがっていた父は友引の前日に亡くなり、
丸々3日間家におりました。
こんな事迄計算していたのか?とも姉達と話していたのですが‥
そんな父も既に七回忌も終えておりますので懐かしい思い出です。

三回忌を終える迄はともかくバタバタとされるでしょうからどうぞ、
体調にお気を付け下さいませね?

お母様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

nophoto
なっこ
2018年10月15日7:12

くるみさん、お久しぶりです。
お母様、本当に本当にご愁傷さまです.・・・。
そしてお母様もくるみさんたちご家族の方たちも本当にお疲れ様でした。
日記を拝見していて、私も長い間医療の現場に携わってきて(今は少し環境が違っていますが)何度もそうした現場に立ち会い、ベッドサイドでの状況がリアルに蘇ってきました・・・。
お母様に付き添い状態の変化に一喜一憂されることも、くるみさにとっては相当のストレスだったと思います。
くるみさんは後悔が多々あったと書かれていますが、安易な言い方になってしまうかも\しれませんが、何より最後を迎える時にご自身の子供であるくるみさんと息子さんに手を取ってもらい旅立たれたことは幸せだったのではないかと、いろんな家族のケースを見てきて、そう思います。
私の母もこの3年の間に大きな病気を2度患い、その度最悪なことを考えていましたが、今も何とか日常生活を送ることが出来ています。
それでも高齢であるため、本当にくるみさんが書かれているように、朝一母の家に行くとき、明かりが点いているのを生存の確認としています。

くるみさんもまだまだ折に触れ胸を痛めることがあるかもしれませんが、どうかご自身をご自愛なさってください。

まるこ
2018年10月15日13:30

お母様のご逝去。心よりお悔やみ申し上げますと共に、ご冥福をお祈りいたします。

KAORI
KAORI
2018年10月15日16:47


くるみさん

お母様のご逝去 心よりお悔やみ申し上げます。

ご病気がわかってから間もなくのお旅立ちで、ご苦労や悔やむこともおありでしょうね。(全く後悔のない人はきっといないです)
しかし
ひっそりと、ゆっくりと、
心置きなくたっぷりと、お母様をお送りできて本当に何よりだと思います。
ご自分の意思で治療を嫌だとおっしゃった強いお母様、私も素晴らしいと
思いました。大往生とはいってもやはりこれからさみしいですね。
私は伴侶の死後、グリーフケアの勉強をはじめました。
大事な方を亡くした後は、引きこもりがちになる方、もしくは過活動になる方が
いるそうです。私は典型的過活動で、 とにかく手続きの大変さもあり動きまわって
気を紛らせていたところがありました。しばらくしてありえないほどたくさんの
体調不調が起きました。最初は円形おハゲ。
くるみさんもきっとしばらくお忙しいと思いますが、どうぞご無理なくお過ごしくださいね。
今はお母様も痛みから解放されてきっと向こうで穏やかにお過ごしだと思います。

どうぞご自愛くださいね。KAORI

nophoto
kaoru
2018年10月15日17:35

お母様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
お母様とは同居されていたとのこと。
いっそう、お寂しいと思います。
私にも高齢の母がおります(別居)
くるみさんの病院での色々な手続き等を真剣に読ませていただきました。後悔のないように送るのはなかなか大変だと思います。
でも、最後に自分の娘と息子に見送られて旅立たれたお母様は幸せだったのではないでしょうか。
これから寂しさが募ると思います。
どうかご自愛ください。

くるみ
2018年10月16日17:29

>マダムMさま、
お言葉ありがとうございます!
おかあさま、95歳になられるんですね(驚)
きっとMさまとおしゃべりするのが楽しみでおられるんですね。
いつもずっとどこかでおかあさまのことを気にかけ心配されていると、
それは疲れてしまわれるのも当然だと思います。
ときどきはゆったり息抜きされますように。
おかあさまのためにもMさま自身どうかご自愛くださいね。

くるみ
2018年10月16日17:31

>akoさま、
お久しぶりです、そしてありがとうございます!
お父様も同じだったんですね。「お母ちゃんが追い返してる」って
素敵な言葉ですね。
おまけに友引の前日とは…
ほんとうに、念願のおうちでゆっくりされたのですね。
お幸せな最期でしたね。
ほんとうに、お言葉ありがとうございます。
akoさんもどうかご自愛くださいね!

くるみ
2018年10月16日17:31

>なっこさん、
お久しぶりです、お言葉ありがとうございます!
なんどもそうした場に立ち会ってこられたんですね。
さぞかしさまざまな「最期」を見届けてこられたんですね。
親不幸をかさねた姉弟ですが、おっしゃってくださったとおり
最期をいっしょにすごせたことで許してもらえるかな?と
満足感もあるんです。
なっこさんこそ、お母様のことご心配ですね、ずっと張り詰めておられる感じでしょうか。
どうかときにはゆったり中居くんに癒してもらって
リフレッシュされますように!

くるみ
2018年10月16日17:32

>まるこさま、
お言葉ありがとうございます!
季節の変わり目、どうかまるこさんもご自愛くださいませ!!

くるみ
2018年10月16日17:33

>KAORIさん、
母の入院のときからいろいろとありがとうございました!
ご自身もまだまだ哀しみが癒えておられないのに、
親身になってご心配くださり本当に感謝しています。
思えば母には学ぶことばかりでした。平凡でおとなしく弱いひとだと思っていたのに
いまおもうと芯の通った強いひとだったんだなぁ、とつくづく思います。

グリーフケア、たいせつなお勉強ですね。
KAORIさんもどうか体調にくれぐれも気を付け、無理なくお過ごしくださいね。
ほんとうにありがとうございました。

くるみ
2018年10月16日17:33

>kaoruさま、
お言葉ありがとうございます!
やはりご高齢のおかあさまがおられるのですね、
離れておられると余計にご心配が尽きないことと思います。
なんといってもKaoruさんが元気でおられなければ、ね。
おたがいしぶとく(笑)中居くんを愛でつつ元気でふんばりましょう♪

雪月花
雪月花
2018年10月16日22:55

くるみさん。

くるみさんも周りのご家族の方も、そして何よりお母様、お疲れ様でした。
ご臨終までの様子を読ませていただき、なんとしっかりしたお母様だったことか。
そしてくるみさんの苦悩や後悔、一つ一つが我がことの様です。
お医者様に「こうされてはいかがですか?」って言われれば、素人の悲しさ、それが最良なのかなって思ってしまうんですよね。
特に時間が差し迫っていると本当に考える余地がありません。
私も母への選択、未だにあれでよかったのかと答えが出ていませんもの。
どんなに手を尽くしても真剣に悩んでも、愛しい人であればあるほど
「もっとしてやれることがあった」って後悔の連続ですよね。
じきすり抜けていく命に、それだけ動転しているからそんなにぴったりな答えなんか出せない。
わたしも、最後まで口から食べさせてあげたかったなぁ、たとえおいしくない流動食であっても。
でもね、「誤嚥性肺炎になりますよ、苦しいですよ」って言われたら、もう何にも言えない。
今でも母に「ごめんね」って心で詫びています。
くるみさん、葬儀や事務手続きなどの後に来るぽっかり。
辛いでしょうけれど、そんなときはここにでも書き散らしてください。
そして自分をたくさん労わってあげてくださいね。
奇しくも、家の父の命日といっしょです。
うちの場合は10日に変わる少し前でしたが、やはり夜中にばたばた手続きをしたのを思い出しました。
ご立派で強いお母様のご冥福を心からお祈り申し上げます。

くるみ
2018年10月17日21:58

>雪月花さん。

お言葉ほんとうにありがとうございます。
やっぱりことあるごとに「あれでよかったのか」と
いまだに迷いも後悔もありますよね。
とくに口から食べられなくなったとたん気力も体力も一期に衰えてしまったこと。
おっしゃるとおり流動食であっても…ね、
「ごはんの時間」というだけで、楽しみだっただろうから、、、切ないですよね。
わたしも同じです。こころで「ごめんね」って謝ってます。
でね、「きっとわかってくれてる」って勝手に思ってます。
きっといつまでも心残りでいるのは母もいやだろうなって勝手に(笑)

お父様と同じ命日なのですね!
暑くもなく寒くもなく、いい季節ですよね。

母のこと、そんな風に言ってくださって、きっとあの世で
(四十九日前だからまだそのへんにいるかな?)
面食らって恥ずかしがってると思います。
雪月花さんこそまだまだお心が癒えておられないと思います。
お互いなんとか、しぶとくつよくたくましく、
中居くんを愛でつつふんばりましょうね!!

ほんとうに、ありがとうございました。

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